
万里の長城
中華人民共和国にある城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産かつ新・世界七不思議。東端の遼寧省虎山から今まで東端とされていた河北省山海関に至り、西端の甘粛省嘉峪関まで総延長は8,851.8km。一般に長城を作ったのは秦の始皇帝だと認識されているが、現存している「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。戦国時代から趙などは北の異民族に備えるために長城を建設していた。始皇帝は中華を統一した後に中国の中にある長城は取り壊し、北に作られた長城を繋げて大長城としたのである。前漢の武帝は匈奴を追って領土を拡張したことから、長城は西の玉門関まで拡張された。現在、中華人民共和国政府は重要な歴史的文化財として保護し、世界遺産にも登録されている。世界有数の観光名所としても名高いが、地元住民が家の材料にしたり、観光客へ販売するなどの目的で長城の煉瓦を持ち去り、破壊が進んでいる。2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、万里の長城が有効保存されている地域は全体の2割以下で、一部現存している地域も3割であり、残り5割以上は姿を消しているとの報告がされた。かつてはその長大さから「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認するのはきわめて困難である。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した楊利偉飛行士が、「『万里の長城』は見えなかった」と証言したため、中国の教科書からこの説は正式に削除された。
天壇
中華人民共和国北京市崇文区に位置する史跡で、明清代の皇帝が天に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)である。1420年、明の永楽帝が建立したとされる。建設当時は天地壇と呼ばれていたが、1534年、天壇と地壇に分離、天壇と呼ばれるようになった。 中華民国(台湾)の台南市にも天壇が存在する。
【圜丘壇】
形は天円地方の宇宙観に則り円形である。また欄干や階段などが陰陽思想でいう最大の陽数である9や、その倍数で構成されている。各壇の直径を合計すると45丈であり、これは単に9の倍数という意味だけでなく、九五之尊という意味も持つ。
【皇穹宇】
皇室の皇に、大空を表す穹と、宇宙の宇という字を書きます。圜丘で祭事が行なわれるとき、壇の上に置かれる天の神や、歴代の皇帝の位牌をふだん安置しておくところ。
【祈年殿】
天壇でもっとも有名とされる建造物の一つで、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在とされる。祈年殿では皇帝が正月の上辛五穀豊穣を祈りを捧げた。中国建築史上重要な建造物とされる。木造で宝頂は金メッキがなされている。屋根は瑠璃瓦葺きの三層になっており、明の時代には上から青、黄、緑となっていたが1751年にすべて青色に変えられた。
廬山
中国江西省九江市南部にある名山。峰々が作る風景の雄大さ、奇絶さ、険しさ、秀麗さが古来より有名で、「匡廬奇秀甲天下」(匡廬の奇秀は天下一である)と称えられてきた。廬山国家風景名勝区に指定されているほか、廬山自然公園としてユネスコの世界遺産に登録されている。廬山は、長江や鄱陽湖畔からも見える高山である。東北から西南方向に山並みが伸び、最高峰である漢陽峰は海抜1,474メートルに達し、山脈全体の面積は282平方キロメートルになる。東は鄱陽湖に依り、南は滕王閣を望み、西は京九線が走り、北には長江が流れている。
廬山は、四周を断崖絶壁に囲まれ、近づきがたい雰囲気が漂っているが、山頂付近にある牯嶺一帯には広くて浅い谷があり、雲や霧が漂い渓流が流れ、風景の美しさで知られる保養地になっている。廬山は、莫干山・北戴河・雞公山とならぶ中国四大避暑地とされている。森林覆蓋率は76.6パーセントに達し、植生の豊かさでも知られる。廬山は、古来より名勝として知られ、東晋の田園詩人で九江の人・陶淵明の「飲酒二十首」其の五に「菊を採る東離の下、悠然として南山を見る」と歌われたのをはじめ、李白、白居易ら多くの詩人に歌われている。
頤和園
中華人民共和国北京市海淀区に位置する庭園公園。1153年(貞元元年)、金朝の海陵王は頤和園内の香山、玉泉山に金山行宮を設置している。元朝が大都に都を置いた後、水運整備の必要性から、郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平白浮村神山泉水から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。頤和園の前身は清漪園である。1750年(乾隆15年)、崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い乾隆帝が西湖掘削と西山、玉泉山、寿安山の造営、更に西湖、高水湖及び養水湖を貯水池することを命じ、西湖を漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因み昆明湖と、また、瓮山を万寿山と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が完成している。当時の清漪園内には居住及び政務施設が極めて乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃、1860年(咸豊10年)、第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により消失してしまった。中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924年に溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校が設置された。またその後も柳亜子や江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953年以降、頤和園は公園となり一般開放された。
殷墟
中華人民共和国河南省安陽市に位置する古代中国殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構。河南平野の現在は近代的なビルが林立する安陽市街地に位置している。殷墟は殷王朝後期の宗教的、文化的な中心地であった。盤庚による遷都から帝辛(紂王)の時代の滅亡に至るまで期間、殷朝の首都であったと伝えられる。盗掘された甲骨片の発見が契機となり、1928年より発掘作業が開始され、殷の首都であることが確認されるに至った。殷墟からは深さ20メートルを超えるものを含む多数の巨大墳墓が発見されている。
発掘に至るまでについて真偽は不明であるが、1899年に金石学者であった王懿栄は、北京市内の漢方薬店で購入した龍骨(漢方薬の一種である骨)に金文に類似した古文字を発見、これを解読すべく龍骨を大量に購入したと伝えられる。殷朝遺構の調査のため、1928年から甲骨の発掘調査が行われることになった。中央研究院は考古学者による発掘隊を組織、日中戦争で中断する1937年まで15回にわたる発掘作業を行い、甲骨だけでなく青銅器などの金属器や墳墓などの遺跡も発見された。1950年に発掘は再開され、1986年までの間に15万件の甲骨が発掘されている。
秦始皇帝陵
秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みな東を向いている。この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服や武器・馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に武士俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査がなされていない。史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。
麗江古城
中華人民共和国雲南省、麗江市の旧市街地。ナシ族によって建設された。ナシ族は8世紀、現在の青海省付近から南下してきたと言われている。南下した当時は磨些詔と呼ばれる小国を建国していたが、唐により蒙舎詔に編入された。その後、近隣のチベット、雲南の少数民族の影響を受け、麗江に独自の景観を作り上げた。これが現在の旧市街である。麗江の旧市街の建築物はほとんどが木造である。仏教や道教の仏像もあり、少数民族によって書かれた麗江壁画が残る。南宋時代の土司、木氏(ムーし)による城も残っていたが1996年に起きた地震で崩壊した。
平遥古城
中国山西省晋中市平遥県の古い城郭都市。省都・太原から南へ100キロの地点にある。明代から清代にかけての中国の典型的な城郭(城牆)、街路の配置、商店や住居などの古建築の保存状態はよく、中国でも最も整っているもののひとつである。交通は、太原駅から列車が便利。約2時間。平遥古城は出入り自由で、入城も無料である。ただし城内の主要な観光地、たとえば平遥文廟,平遥県署、近代以前の中国最大の金融業者であった票号・日昇昌、中国鏢局博物館、古民居博物館などは入場にあたって門票を買う必要がある。平遥古城内には旅店(旅館)、餐館(レストラン)、商店などが多くある。旅館は古い民家を改造したものであり、商店では平遥特産の推光漆器や繡花鞋などの土産物を扱っている。 城壁は有料で上ることができる。一周すると約6kmほどであり、自転車のレンタルもある。宿泊は駅前や城内の旅館で可能だが、太原を拠点に観光する場合は太原市内に泊まるのが便利だといわれる。
蘇州古典園林
中国、江蘇省、蘇州にある歴史を有する庭園。蘇州古典園林の庭園の多くは明の時代に建設された。これらの多くは地元の名士により作られたもので、公共事業としてではなく、個人の趣味で置かれたもので、皇帝所有の庭園である皇家園林に対して私家園林という。庭園は豊かな水を利用し、池を配置した素朴な美しさを特徴とする。蘇州以外の江南の地にある名園を含めた“江南私家園林”が総称として中国国内では一般的である。州古典園林のうち、拙政園と留園は中国四大名園の二つに数えられる。また、宋代の滄浪亭、元代の獅子林、明代の拙政園、清代の留園の4つに時代にそれぞれ作庭起源をもつ庭園を合わせて“蘇州四大園林”ともいう。
青城山
中国・四川省都江堰市にある山地・景勝地。道教の発祥の地の一つとして古代より知られ、道教関係の重要な建築物が集中し、宗教・医療・音楽などの道教文化が伝えられてきた。中国の中でも著名な歴史名山および国家重点風景名勝区であり、2000年、付近の岷江にある古代の水利施設・都江堰とともに世界遺産に登録されている。青城山は四川省都江堰市(旧称・灌県)の市街地の西にあり、市街地に隣接した都江堰水利施設からは西南へ10km、省都成都市からは北西へ68km。成都平原の北西に屹立し霧が多い。青城山は前山、後山に二分される。前山は青城山風景名勝区の主要部分で15平方kmの範囲に広がり、風景の優美さと道教関係の文物古跡の多さで知られ多くの観光客を集める。後山は100平方kmに及ぶ山岳で、交通が不便で地形も険しいが、原生林や渓谷が多く、より幽玄で自然が一層よく保存されている。
都江堰
中華人民共和国四川省都江堰市西部の岷江にある古代の水利・灌漑施設。都江堰は、岷江が龍門山脈を抜けて成都平原(四川盆地の西部)に出るところに形成された扇状地の扇頂部に設けられており、岷江の水を左岸(東側)一帯へと分水している。都江堰は現在でも5,300平方kmに及ぶ範囲の農地の灌漑に活用されており、古代の優れた土木技術を今に残すものである。それまで水不足に苦しんでいた成都平原は水田や桑畑などが急速に広がり水運も便利になり、「天府之国」と謳われる大穀倉地帯となった。都江堰は以後も改良や補修を加えられ、2300年後の現在もなお機能する古代水利施設である。現地には、李氷の偉業を讃え石像も建てられている。1982年には国務院の指定する全国重点文物保護単位の一つとなり、2000年には青城山とともにユネスコの世界遺産に登録された。
龍門洞窟
中国河南省洛陽市の南方13キロ、伊河の両岸にある石窟寺院。北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年に始まる。仏教彫刻史上、雲岡石窟の後を受けた、龍門期と呼ばれる時期の始まりである。龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲岡石窟の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏においては雲岡のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった。『魏書』釈老志にも、500年(景明2年)に宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している。様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、全体的に華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳懸座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる。
五台山
観音菩薩の霊場である普陀山と、普賢菩薩の霊場である峨眉山、地蔵菩薩の霊場である九華山と並んで、中国仏教の聖地とされる(中国三大霊山、中国四大仏教名山)。現在でも、台内に39ヶ寺(南山寺、顕通寺、塔院寺、碧山寺、普化寺、観音洞、龍泉寺、金閣寺など)、台外に8ヶ寺(延慶寺、南禅寺、秘密寺、尊勝寺など)で、合計47ヵ寺の寺院が存在する。日本の平安時代から鎌倉時代の入唐僧や入宋僧の多くも、天台山と共に率先してこの山を訪れた。また、チベット仏教の教徒の尊崇も集めており、菩薩頂と呼ばれる寺院のある五台山は、中国内地では、漢伝仏教とチベット仏教との唯一の共通の聖地となっている。2009年の第33回世界遺産委員会で世界遺産リストへの登録が認められた。複合遺産としての推薦だったが、文化的景観としては認められたものの、世界自然遺産としての価値は認められず、世界文化遺産としての登録となった。
福建土楼
中国福建省南西部の山岳地域にある、客家その他の人々による独特の版築建築物。土楼は通常、外部立ち入り禁止の大きな建物で、長方形か円形をしており、厚い土壁(180センチ以上)と木の骨格から成り、高さは3階か5階、80家族以上が生活している。 この土でできた建物は通常1つの入口しか持たず、その入口も、鉄板で頑丈に補強された厚さ10~13センチの板戸で守られている。 建物の最上階には、盗賊を防御するため、狭間が空けてある。福建土楼は、初渓 Chuxi 土楼群、田螺坑 Tianluokeng 土楼群、河杭 Hekeng 土楼群、高北 Gaobei 土楼群、華安県の大地 Dadi 土楼群、洪坑 Hongkeng 土楼群、衍香 Yangxian 楼、怀远 Huiyuan 楼、振福 Zhenfu 楼、和贵 Hegui 楼など、46を数える。2008年、福建の土楼として、ユネスコの世界遺産に登録された。 「生活と防衛を集団で行う組織の、特徴的な伝統的建築と機能の例として、またその環境と調和したあり方に関して」優れた点が認められた。
開平楼閣と村落
広東省開平に位置する、ディアオロウという高層の楼閣で著名な村落群で、現存の高層楼閣は1833棟にのぼる。楼閣は華僑洋館とも呼ばれる西洋風の高層建築で、中国の伝統と西洋の建築意匠が見事な融合を見せている。開平市の赤坎鎮、自力村、方氏灯楼、蜆岡鎮、百合鎮の村落群はニュージーランドのクライストチャーチで開催された世界遺産委員会会議で世界文化遺産リストに登録された。特色は中国と西洋を折衷した外壁を持っていることで、古代ギリシア、古代ローマとイスラムなどの建築様式が結合したもので多様性に富んでいる。また、集落防衛の為、銃眼がある。機能によって集合住宅、居楼と刻楼に分類すると、居楼が最も多い。建築材料によって石楼、泥楼、磚楼(煉瓦造り)とコンクリート楼に分けると、コンクリート楼が最も多い。


